昭和四十三年十二月六日 夜の御理解
同じような事が言えるけれども、とりわけ信心をさして頂いておかげを頂くという事は、どうでもこうでもという心だと思うんですね。貫くという事。こういう一つの精神が必要です。所謂一心発起と、ね。一つの心をそうゆう、それが勿論尊い事に発起される。信心はそれなんです、ね。
例えば、あの青の洞門の、あの何んとかというお坊さんがノミ一本で堀り貫いたようなもの、それこそ執念、一つの執念ですよね。執念の鬼になっておるような、そういう執念にも似たようなものがどうでも必要だと、私、思うんですよね。執念というと、執念にも似たような心。信心には、これが必要なんです。
例えば朝参りなら朝参りを、もう貫徹するという事は、この執念がなからなければ出来る事じゃありません。それを貫かせてもらうところに、私はそれが尊い事であればある程お徳を受けると思うんですね。貫く事がですよねえ、いわば大した事でない事に貫いたんでは・・・。やはり信心は有難い、ね。信心でそれが思われ信心でなされる。その事が一つの貫徹される。それにはどうしても執念といったようなものが必要である。
今度植樹の事から造園という事にまでなった。もう結局、この度造園をしたらもう一生、一生というが後で悔いを残さないようにというので、中心になっておられる方達は一生懸命、それこそ執念を、いわば燃やしておる訳ですが、そういうような事が、まあ九州きっての名人と言われる東梅里さんがここに来て頂く事になり、そして、なら自分が一月から、ひとつ本腰を入れてやらせて頂こう、兎に角、もう前面的にやり直してしまおうと。そして、まあこのお広前にふさわしい、いわばお庭を作ろう、名園にしようと、こういうような事に昨日話が決まりました。そこでいろいろと植樹の事でも、献木が沢山お供えしたいと言うてきとりますけれども、献木という事は、もうたいしていらない事になってきた。必要な物だけしかいらない。必要以外の物はかえって、その妙ちくりん、困ると言われておるんですねえ。
ところが、その先日ある方が大きな木を、まあお供えしたいと。それで、そのそれはあまりにも大きすぎるというか、大変な金もかかる事だから、まあ他のほうに回して欲しいと言うて、こちらから連絡を取りましたけれども、もう既に契約が済んでおって、やっぱどうでもと言うので、今日若い方達ばかりが十名余りそちらへ参りまして、宮崎副委員長が先頭で参りました。それが行っておる間らしいんですけれども、まあそれに取組んで今日一日がかりで、ようやく堀上げるだけは堀上げた。そこでその正義さんが丁度皆んなが帰って、もう帰ろうとしておるところへ、正義さんがどうじゃったやろうかと言うて模様を見に来たらしいんですよね。そしてその兎に角早速運搬の事があるから、どういうのか見に行こうと言うので、又遠方をわざわざ広瀬の方に見に行ったんです。見に行って又たまがったらしいですね。とてもとても玄人なら絶対手はつけきらんと言うんです。まあ素人じゃから掘ったに違いない。玄人なら初めから全然問題にしないと。こういう木が移植出来るとか、運ぶとかそげな事は出来ない。それでもやはりこうして堀上げたのだから、どうとかしなければならん。久富組の、例えば土木の材料やら車位の事では出来ないからいよいよ重量運搬の車に交渉して、しかも持って来る為には、この交通遮断してこなければいけない。それだから警察にも許可をとらなければならないからというので、それから直ぐ帰ってその手配を今しております。
これは、そのお供えをしたいという方の一つの執念のようなものです。どうでもこれをお供えしたいとこう言う一つの執念のようなものがですね、そういう事にまでなってきたんです。今そこで、その、七時頃確か、丁度宮崎さん達が帰ろうと、電話してくる為に帰ろうとしておるのと正義さんと一緒だったもんですから、そこで話し合いをして私もそこんところへ表に行ったらあすこに腰掛けて皆んな打ち合せをしておるところでした。話を聞かせて頂いたら、もうそんなそんなそんな取組んだものというか堀上げたもんであるなあと、それを聞いて実は驚いたんですけれども、けれども皆んながこの勢いでどうかして堀上げたのだから持って来てここに植えなきゃでけんという、そういう一生懸命のものがありゃね、おかげ頂くだろうと、私は思うてこちらへ食堂の方へ下がって参りました。食堂に下がっておったら新聞がきておった。新聞にね、こんな大きな活字で書いてある事がね、「虎の執念」って書いてあった。後から君子さんが切り抜いて、後から見せなさいと言うたんですけれどもね。こんな大きな字で「虎の執念」と書いてあった。その虎の執念がね、わずか五時間の間に、その約束が成立したといったような事が、何かしらんけれども内容は読みませんけれど、そういう事が書いてあった。勿論虎と言やあ私の事でしょうね、虎年ですから。結局、その執念にも似たようなものがです、なからなければもう本当にこれが尊い事であればある程、大きな事であればある程出来る事じゃないと。もう見ただけで、とてもこれは誰も・・・。もうこれじゃできん。駄目なんだ。とても正義さんが言う事には、とても玄人ならば手は付けきらんと言うんですから。素人なら、なお付けきらないはずなんだ、出来ないはずなんです。けれどもここまでやったからにはやり抜こうと言うので、あらゆる手配もする。それに対する所のおかげを受けなければならない。そこで私はここで話した事でした。それはね、とても人間心じゃ持ってもこれんかもしれんけれども、こんな話があるよと言うて、その方達に話したんです、もう玄関の庭に立ちながら。
久留米の御造営の時に、櫛原教会の御造営の時に、ここに使ってある大きなこの桧の一本、一本の木でこれはここを貫いておりますね、この前の大きな木が。それを運ばして頂くのにですね、その、久留米の櫛原に曲がる角の所に今はあのように道が広うなりましたけれども、あそこは小さい道でした。だからあすこまで来てから、どっこいもう後にも前にも下がらない訳です。そこで馬車引きさん達がですね、あの、こうしておってもどうにも出来んからと言うので、まあそん時付いておった信者さんひとりを、「とてもこれは持って入られんよ」と。それで直ぐお願いに来た。親先生が御結界に奉仕しておられた。「よし、神様にお願いをする」と言うて、その、お願いをされてから帰った時に、どんなんして車が入ったか分からんごし入ったという話があります。どうしても入るはずがないです。そしたら椛目時代の時の話を宮崎さんがされるんですよ。そんな事は椛目でも一遍あったと。あの裏に大きな石じゃないですけれども、あの石が座りました時にですね、もうあすこの小さい壁の所から、これはまあ寸法計ってみても、どうしても駄目だと。そうして、そこまで駅まで持って来ておるから、ところがどうしても入らんからお願いに来た。高山さんが石を、庭をそん時作りましたから、そん時でした。宮崎さん達もそれを実際目撃しておった。それがその、それが例えばもうどんなんして転がり込んだか分からんごとして石が入ったち言うのです。今、壁に座っとる石がそうなんです。あれは上は小さいけれども下はとっても大きいんですよ。兎に角やはり、その、ひとつの神様のやはりおかげを頂くという事を神様の働きをですね、その働きたらしめるというかね、それにはやはり私共がですね、一念発起。しかもそれをですね、ある場合には火の玉のような熱情。ある場合には、とてもなんぼぶつかってもぶつかっても出来なくても出来なくてもです、これを貫ついしなければ、貫かなければおかんというですね、それこそ執念にも似たような心を燃やさなければならないという事。おそらくはそういう例えば現在、正義さんを委員長に、そしてこの植樹、又は造園がなされるのですけれども、おそらくそうゆう、まあ執念にも似たようなものがです、私は感じられます。でなからなければ、とてもでける事じゃない。これは普通一般じゃ出来んのですからね、これは私の執念なんです、ね。どこにでもあるごともんなら作りなさんなという、私の執念なんですけれども。
ですから、いわゆる虎の執念がですね。そういう風に皆さんの上にも、言わば乗り移るように、ひとつおかげを頂いて、ね、その執念が、ね、貫き通されなければならない。しかもその事をです、それは何にもならない事、そげん力んだって力むがたのない事に、私は執念を燃やしたって仕方がないのだけれども、ここ神様が立ち上がってござるという、これはあらゆる場合に感じられる。この造園に神様が立ち上がってござるなあと思われる。その神様の手にも足にもならして頂こうという御用の事についての執念ですから、私はおかげを受けられると、私は思うのです。どうぞ虎の執念を貫く事は、そのまま神様の思いを貫く事でもある。それには皆さんの、その執念にも似たような私は信心の、信心ですね、その事に対する熱情がいよいよ必要になってくると思うのでございます。どうぞ。